
コロニルの歴史
100年以上の企業としての歴史の中で、コロニルは多くの浮き沈みを経験してきました。2つの世界大戦や世界恐慌、さらには工場の接収といった危機を経て、それでもなお長い期間を通して、大小さまざまな成功をもって困難を乗り越え、コロニルは今に至ります。
すべては1909年、ベルリン・クロイツベルクの小さな裏庭から始まりました。そこから、高品質なシューケアとレザーケアの代名詞としてグローバルに展開する企業、Collonilへと成長を遂げたのです。
コロニルの名は、昔も今もイノベーションと技術的リーダーシップを象徴しています。

代表(CEO)のフランク・ベッカーは、コロニルのDNAについて次のように語ります。
「私たちのすべての活動の中心には、お客様がいます。私たちは、お客様のために高品質かつカスタマイズされた商品を開発し、製造しています。お客様のニーズを認識し、その要望を満たすことこそが、私たちの使命でありモチベーションなのです。」
コロニルの創設
1909年は、イギリス国王エドワード7世の訪独に沸くベルリンにとってまさに輝かしい年でした。そのベルリンにおいて、カール・エスレンは素晴らしいビジネスセンスを発揮しました。パリで医学を学び、父親の新聞社で編集者として働いた後、彼は自分が何をしたいのかをはっきりと理解していました。それは会社を設立することでした。
スウェーデンのレザーオイルメーカー、オルセン社からのオファーは、まさに絶好のタイミングでもたらされました。同社はドイツでの総代理店を探しており、カール・エスレンがその契約を勝ち取ったのです。カールは、樽に入ったオルセン社の粘性のあるレザーオイルを50ml容器に詰め替えて販売することから事業を始め、すぐに駆動ベルト工場からの大量発注を受けるまでに成長しました。
カール1人での事業はすぐに限界を迎え、彼は共に働く仲間を必要とし、パウルとヴァルターのザルツェンブロット兄弟を見出しました。この3人が共同で会社を設立し、後に「Collonil(コロニル)」というブランド名で靴・レザーケア用品を販売するようになりました。この名前のインスピレーションは、フランス語の「coller(くっつく)」から来ており、ケア用品の「粘り気」のある質感を表しています。
事業は急速に発展し、ケーペニッカー通りの裏庭にある2つの部屋では手狭になりました。程なくして、ベルリン・クロイツベルクのシュレージッシェ通り12番地に最初の工場が建設されました。
第一次世界大戦とその後
第一次世界大戦中、ザルツェンブロット兄弟が徴兵された一方で、カール・エスレンはルクセンブルク市民権を得ていたため徴兵を免れ、急成長する事業に注力することができました。兵士達は革ブーツの防水油を必要としており、売上は増加し続けました。硬式飛行船を発明したツェッペリン伯爵でさえ、自らの飛行船のロープの防水にコロニルのレザーオイルを使用しました。そして、カール・エスレンにオイルの「実証済みの効能」を称賛する熱烈な手紙を送ったのです。
終戦とともにザルツェンブロット兄弟が会社に戻ると、再結集した3人は非常に生産的かつ革新的に事業を展開しました。彼らは他社の代理店としてではなく、コロニルの名のもとにオリジナルの「最高級の要求に応えるシューケア」を開発することを決意します。その革新的な商品は、Edelcreme(高級クリーム)、Lackleder-Pflege(エナメル革ケア)、Wildleder-Dressing(スウェードドレッシング)、Rauhleder-Stift(起毛皮革スティック)と名付けられました。
1921年、会社は拡大し、ベルリン郊外のブランデンブルク州ミューレンベックに大きな拠点を建設しました。この年は3人の創業者にとってまたしても重要な年となったのです。
狂騒の20年代
ミューレンベックへの移転は、極めてクリエイティブな時代の幕開けとなりました。成長期の最大のヒット作は「Glanz-Fett(グランツ・フェット=光沢グリース)」と呼ばれるもので、従来品に対する決定的な優位性を持っていました。これまでの「レザーオイル」や「フェット(グリース)」では革に防水性は与えられましたが、光沢は出せませんでした。しかし、シューポリッシュの原型とも言えるこの新商品はすべての要求を満たし、瞬く間にトップセラーへと成長しました。Glanz-Fettの改良版は、現代においても「アンチレイン」として販売を継続しています。
創業者は、会社と商品の成功には優れた広告が不可欠であることを、いち早く認識しました。「Schuhe wollen Collonil(靴はコロニルを求めている)」というスローガンはこの時期に生まれ、現在でも使われています。
悲しいことに、カール・エスレンは会社の成功を始まりしか見届けることができずに1929年に急逝しました。
困難な時代
あらゆる政治情勢の変化にもかかわらず、事業は1930年代半ばまでは順調に発展しました。1930年、コロニルはオーストリアに子会社工場を開設しました。ザルツェンブロット兄弟は「スキー、登山、ハイキングが人気のこの国ではレザーケア・シューケアの高い需要があるはず」と考えたのです。狙い通り、この地でもコロニルは人気を博し、スキーワックス等新たな商品の開発に繋がりました。
しかしその後、会社は度重なる困難に直面します。カール・エスレンの急逝に続くパウル・ザルツェンブロットの死という2度目の大きな喪失をコロニルは乗り越えなければなりませんでした。
そして第二次世界大戦はコロニルにも困難な時代をもたらしました。製造業は軍需品以外は必要最低限に限定され、革新的なレザーケアへ関心を持つ余裕は人々から失われました。ミューレンベックとウィーンの工場は幸いにも無傷でしたが、パウル・ザルツェンブロットの妻はユダヤ人だったため、会社は綱渡りのような日々を過ごしました。残された創業者であるヴァルター・ザルツェンブロットは、戦乱の渦中において巧みな策略により工場の閉鎖や軍事転用を阻止し、会社の存続を守り抜きました。
新たな出発
終戦後、ドイツ分割によりミューレンベックの拠点は東側、ソビエト占領地域となりました。西ドイツ市場への商品供給はもはや不可能な状態でした。ウィーンの拠点もオーストリア政府に接収され国有化されましたが、管財人の尽力により再びコロニルに戻すことができました。
ドイツの正式な分断とそれに伴う会社拠点の国有化の後、先見の明のあったヴァルター・ザルツェンブロットは、夜の闇に紛れて西ベルリンへと脱出しました。ベルリンの南部で、ザルツェンブロット家は会社の再建をほぼゼロからスタートさせました。この時点で、コロニルはザルツェンブロット家による家族経営の会社となりました。
戦争の惨禍を経て経済が回復(奇跡の復興)すると、人々は再びファッションに関心を抱き始めました。これにより、高品質なシューケア・レザーケア用品の需要も自然と高まりました。
Made in Germany
1950年代には、「Made in Germany」は世界中で品質と信頼性の代名詞となりました。すべてのバリューチェーンをドイツ国内に残し、ベルリンを生産拠点として確立するという決定が功を奏し、コロニルは成功を不動の物としました。
ドイツ国内市場でブランドとして確固たる地位を築き、この時期から他市場への進出が始まりました。そして間もなく、ベルリン発のシューケア用品はフランス、デンマーク、オランダでも大きな成功を収めました。
ビジネスは活況を呈していましたが、波乱に満ちた数年間トップを務めたヴァルター・ザルツェンブロットは、コロニルの未来を次世代の手に委ねる適切な時期が来たと判断し、一線を退きました。新しいスタートを切ったコロニルは、工場用地の閉鎖に伴い、ベルリン郊外のヴィットナウに本社と工場を移転しました。現在に至るまで、コロニルはこの閑静な住宅街で操業を続けています。
挑戦と証明
60年代の絶え間ない需要増加により、新しくより大きな製造工場の建設が必要となりました。最新の製造設備とコロニルの培ったノウハウを組み合わせることで、会社は成功の道を歩み続けました。
ベルリン発のシューケア用品は常に期待された効果を発揮しました。その結果、いくつかの商品はオーストリアでの認定を受け品質の証として国章の使用を許可されました。また、最も過酷な使用環境下でも革を柔らかくしなやかに保つことにより、「Sport-Wax(スポーツワックス)」は登山家たちから高い評価を受け、世界最高峰の山々への挑戦を支えました。
1962年、カール・マリア・ヘルリヒコッファー博士率いるドイツヒマラヤ登山隊は、十分な量のコロニル「スポーツワックス」を携えて、ヒマラヤ山脈の標高8125メートルのナンガパルバット登頂に見事成功しました。
コロニルの開発チームにとって、こうした成功・賞賛は理想的な配合をさらに改良し続けるためのモチベーションとなりました。
帰還後のヘルリヒコッファー博士の言葉:「1954年のブロード・ピーク遠征で使用し、すっかり骨のように硬くなっていた靴でさえ、"スポーツワックス"のおかげで再び耐久性のある状態に蘇ったのです。」
湧き上がるアイデア
コロニルの心臓部は昔も今も研究室(ラボ)です。
ここでは研究開発だけでなく、すべての新商品が徹底的にテストされます。コロニル商品は、市場に投入されお客様の靴に新たな輝きをもたらす前に、数多くの品質基準を満たし、テストに合格しなければなりません。これは昔も今も、すべての商品に当てはまります。
1970年代、自社開発のスポンジを備えた、ブラシや布を必要としないアイディア「Selbstglanz(セルフシャイン)」など、大成功を収める革新的な商品が誕生しました。
この時期のもう一つの画期的なイノベーションは、60年代後半に開発されたエアゾールスプレーでした。これらはレザーケアに革命をもたらしました。スプレーするだけで、革に跡を残さず完璧に保護するという、他のどの処方でも成し得なかったことを簡単に実現したからです。この成功は、輸出を急激に伸ばす要因となりました。
コロニルは当時すでに世界70カ国以上に輸出されていました。1971年にはフランス支社、翌年にはデンマーク支社が設立され、日本、モナコ、サウジアラビア等世界各国でもコロニルは広く知られるようになりました。日本では1963年にエス・アイザックス商会によりコロニルの販売が始まっています。
時代の変化
1980年代後半から1990年代にかけて、コロニルは経営陣の世代交代が続くなか、ベルリンの助成金廃止によるコスト上昇、消費者の嗜好の多様化など、新たな戦略が求められる事態に直面していました。
ベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統一は、失われたと思われていたミューレンベックの生産施設をコロニルにもたらしました。物流センターとしての拡張計画は当時のコスト問題で見送られましたが、このビジョンは後に、1998年に就任したCEOフランク・ベッカーの元で現実のものとなりました。
新市場での輝き
1998年に経営を引き継いだフランク・ベッカーは「コロニルには早急な磨き上げが必要だった」と回想しています。彼は経営的な観点から「構造を調整し、ブランドの展開を変え、市場環境を変革・拡大する」という新たな目標を設定しました。
国際的な拡大が首尾一貫して推進され、その計画は見事に成功しました。東ヨーロッパ、ロシア、オーストラリア、台湾、アラブ諸国などが新たな輸出先として加わり、1998年からの10年余りで輸出シェアは18%から50%へと増加しました。ドイツ国内においても、コロニルは高級靴専門店でのリーダー的地位を大きく拡大しました。
開発と生産は今でもベルリンで行われています。「ここに私たちの最大の宝があります」とフランク・ベッカーは明かします。「計り知れないノウハウを持ち、コロニルの未来を形作る重要な役割を担っている、長年勤める従業員たちです」。
素晴らしい展望
新しいミレニアムは、さまざまな新商品や商品ラインの登場とともに始まりました。2001年、「Premium Line(プレミアムライン)」を発表、中でも「プレミアムディアマント」は日本における伝説的なヒット商品となりました。2002年の「Car Care(カーケア)」、そして2005年の航空機用のプロフェッショナル向けシリーズ「Aviation(アビエーション)」、2006年の「Nano(ナノ)」シリーズなどが次々と開発されました。
2009年、コロニルは新たなレザーケアのマイルストーンで創業100年を盛大に祝いました。創業100年を記念して発売されたブランドの最高級ライン「1909」は、コロニルの伝統を思い起こさせつつ、コロニルが今日において象徴するもの、幅広いノウハウと最先端の技術、そして原料へのこだわり、それら全てが結集し、世界中で賞賛を持って受け入れられました。
企業史におけるもう一つの金字塔は、2013年に開発された防水スプレー「Carbon Pro(カーボンプロ)」です。新技術「カーボンテクノロジー」によりカーボン繊維を模した網目状の通気性・伸縮性を有する保護膜を形成するこの防水スプレーは、世界的なヒット商品となりました。
新たなステージと終わりなき挑戦
2013年、コロニルは1945年に失ったミューレンベックの土地に床面積3,000平方メートルの「コロニルロジスティクスセンター」を設立しました。このセンターは、コロニル商品を世界中に届けるための超近代的な物流センターとして、コロニル史上最大級の設備投資により設立され、旧東ドイツに位置する周辺地域に多くの新たな雇用を生みました。
私たちはブランド、その100年以上の伝統、そして提供する品質に責任を感じており、次世代の人々にもコロニルがシューケア・レザーケア分野において最高のブランドであり続けることを確信してもらいたいと考えています。コロニルの全チームは、これからの100年も世界中のお客様の靴がバッグが輝き続けるよう尽力してまいります。